「 おかしくない 」
病気や障害には、
見た目からわかるものと、
見た目からはわからないものがあります。
見た目からわからないものの場合、
周囲の人にその病気や障害について、
知ってもらい、理解を求めていく事が大切になってきます。
例えば、私が病気や事故で片腕を失くしてしまった場合、
周囲の人は、私を見ただけで状況を理解します。
だから誰も、私に両手を使わないと行う事が難しい作業を頼むことはしないでしょう。
一方、私が病気や事故で聴力を失くしてしまった場合、
周囲の人は、私を見ただけでは、
私が聴力に障害があることを理解できないので、みんな話しかけてきます。
その為、私は、周囲の人に耳が聞こえない事を伝え、
理解してもらう事で初めて、
周囲の人は、私と接する際に言葉以外の方法をとるようになります。
このように見た目からはわからない病気や障害の場合、
周囲の人の「理解」が、とても重要になります。
認知症は、後者ですが、
この「理解」が、とても難しい。
なぜなら、認知症と一括りに言っても、人によって様々な症状があり、
対応の仕方もそれぞれ違います。
また、記憶障害や見当識障害など、
人が生活していく上でとても大切な脳の障害であるという事が、
認知症という病気を理解するのを難しくしています。
そして、身近で介護を行う人は、
「理解」するだけでなく、
理解した事を「実践」する力も必要になってきます。
この「実践」がさらに難しい。
長年介護をしている介護職員でも、
この「実践」が出来ている人はあまりいないのではないかと思います。
「実践」が難しいのは、
介護を行う人に「記憶力」と「感情」があるからです。
認知症になると、
もの忘れという記憶障害がおこることは、認知症にかかわる人であれば、
ほとんどの人が「理解」しています。
しかし、5分おきにトイレに行きたいと繰り返し訴える。
ご飯を食べたのに、食べてないと訴える。
自宅にいるのに、家に帰ると訴える。
このような事があると、
認知症という病気がそうさせていると理解していても、
つい、
「さっきトイレいきましたよ」
「さっきご飯食べましたよ」
「ここが家ですよ」
などと答えてしまいます。
これは、私達にはさっきそれをしたという「記憶」があるので、
何度も言われると、わかっていても、つい、
イライラの「感情」が芽生えてしまうのです。
「実践」とは、
この自分に湧いてくる感情をコントロールし、
認知症という病気がさせている事に振り回されずに対応出来る。という事です。
これができて初めて、
本人にとって落ち着く環境であったり、
きちんとした人間関係ができてくるのではないかと思います。
その他の症状も同じで、
周囲から見て、なぜその様な行動をするのか?という症状であっても、
本人にはきちんとした理由があったりします。
記憶障害や見当識障害が邪魔をして、
わかりずらくしているだけで、
考え方や感情の動きは私達と何も変わりません。
ですから、
その理由を見つけることが出来たら、案外その行動が理解できます。
自宅にいるのに、家に帰る。がいい例で、
多くの場合、今住んでいる自宅に関する記憶を障害され、
本人の中では自分が生まれ育った家の記憶しか残っていない為、
そのような言動が出てきている様に感じます。
自分の記憶している自宅に帰ろうとするのは当然なので理解できますよね。
私が言いたいのは、
認知症になったら頭がおかしくなって、意味不明な行動をしてしまう。
なにもわからなくなってしまう。
というイメージは間違いだという事です。
何もおかしくありません。
おかしいと思うのは、
その理由を私達が認識できていないからであって、
それを見えずらくしているのが、認知症という病気だという事です。
最後に、認知症の方が書いた詩をご紹介します。