「 到彼岸のあなた 」
8月31日。
大浦家家族である、アイさんが天国へ旅立ちました。
享年82歳。
彼女と初めて会ったのは、ショートステイ先の施設でした。
彼女は元々、視覚障害のある息子さんと2人で生活していました。
普段は身の周りの事を自分で行う事が出来ていましたが、
徐々に彼女の体調にムラが出る様になり、
調子が悪い時は歩くのも難しい状態だったそうです。
当然、視覚障害のある息子さんが彼女の世話をするのは難しく、
入居先を探す事になりました。
彼女が大浦家の家族になったのは、
平成29年3月の事なので、弊社の創業初期の頃からの付き合いでした。
入居当初の彼女はまだ自分の力で歩く事が出来た為、
茶碗洗いや掃除、洗濯、調理など、積極的にお手伝いをしてくれていました。
また、本人の希望で編み物をしたり、パソコンを使う事にもチャレンジしました。
息子さんとも定期的に食事やお茶をしにお出掛けしていました。
もちろん私達や大浦家家族の皆とも、色々な事をし、色々な所に行きました。
外食、カラオケ、ボーリング、大衆演劇、サーカス、旅行などなど。
今思い出すのは、大分に旅行に行った時の事です。
お寿司が好きな彼女は、
ホテルのバイキングでお寿司ばかり食べ過ぎてお腹を壊してしまい、
翌日のサファリパークを楽しむ事が出来ず、
ずっとバスで休む事になってしまいました。
そんな彼女も年々衰え、歩行器から車椅子になり、身体もどんどん痩せて行きました。
そして去年の年末。
彼女に最大の悲しみが訪れます。
彼女は転倒して入院する事になりました。
彼女が入院してしばらくした頃。
役所から私に連絡が入りました。
電話口の向こうで告げられた言葉は衝撃的なものでした。
その内容は、息子さんの急死を伝えるものでした。
電話を終えた後、私は状況を受け入れられず、しばらく茫然としていました。
いまだ入院中のアイさんに、この事をなんと伝えればいいのか。
病院のソーシャルワーカーと相談し、彼女に負担をかけない為に、
この事は退院まで伏せておく事になりました。
息子さんの件に関しては、遠方の親戚の方が対応して頂ける事になりました。
退院後、関係者の方々と相談の上、
私からアイさんに息子さんの事を伝える事になりました。
事後手続き等もある為、ゆっくりもしていられません。
私はタイミングをみて、彼女に息子さんの事を伝えました。
私はとにかく彼女が少しでも傷つかない様にと思うばかりで、
彼女にどのように伝えたかは、はっきり覚えていません。
ただ、私達が居る。
私達は家族同然だから、今後の心配はしなくて大丈夫。
そんな感じの事を話したと思います。
急な知らせに彼女は茫然とし、何を言われているかわからず、
どこに目の焦点を合わせたらいいのかもわからない様子で、
目線が宙を泳いでいました。
そして、
『なんで息子が・・・ なんでで息子が・・・。』と、
何度も、何度もつぶやいていました。
この時の彼女の表情が今でも脳裏に焼き付いて離れません。
思えば彼女はいつも息子さんの心配ばかりしていました。
どんなに言葉を取り繕おうと彼女のショックは計り知れません。
しかしその後、彼女は今まで以上に身体機能の低下が顕著になり、
誤嚥性肺炎で入院、食事もミキサー食でないといけない程になりました。
そして8月。
大浦家にてコロナのクラスター発生に伴い、誤嚥性肺炎を併発し、
最期の時を迎える事になりました。
私の知る限りの中で彼女の人生を振り返ると、
彼女のとても穏やかな性格からは考えられない程、
試練の連続だったのかもしれません。
仕事、結婚、出産、育児、離婚。
仕事をしながら女手一つで視覚障害のある息子さんを育てるのは、
容易な事ではなかったはずです。
視覚に障害があるのは前述の通りですが、
息子さんには不摂生な所やお金にルーズな部分もあり、
息子さんが成人し、
自立してからも彼女の心が落ち着く事はなかったのではないかと思います。
実際、彼女が息子さんの事を心配する言葉を私は何度も耳にしています。
そして、最期は親よりも早く先立つという、母親として最大の悲しみ。
弊社は彼女の心を少しでも軽くする事が出来たのだろうか?
そんな、今では確認しようがない事を何度も考えてしまいます。
私の親類にも障害のある人がいます。
だから分かるのですが、障害のある子の親が必ず考え、悩み、心配するのは、
『自らが亡くなった後、我が子が無事に生活していく事ができるのだろうか?』
という事です。
ですから、一方でこうも思います。
自分が先に亡くなってしまったら、
天国へ行った後も、息子さんの心配をし続けなければならなかったのではないか。
だから最期に何の心配もなく旅立つ事ができて、
彼岸でふたり、穏やかに過ごせているのではないか・・・と。
9月26日。
上津役家家族である、ヤスさんが天国へ旅立ちました。
享年85歳。
彼女と初めて会ったのは、彼女の住むご自宅でした。
初めて会う私にも、とても穏やかに、
そして優しく接してくれた事を覚えています。
彼女の入居までの経緯は、
本誌の4月号にてご紹介しているので、ここでは割愛させて頂きます。
彼女が上津役家家族になったのは、今年の3月10日の事。
私達が彼女と過ごす事が出来たのは、半年程しかありませんでした。
ですから、他の方と比べて彼女との思い出が多い訳ではありませんが、
期間が短いからと言って、
彼女や彼女のご家族との関係性が薄かったわけではありません。
スタッフは、日々彼女の症状と向き合い、ご家族と連絡を取り合い、
彼女と生活をしてきました。
スタッフそれぞれに彼女への想いや、彼女との思い出があります。
私自身も、初めて彼女に会った時に約束した、故郷熊本の味。
そして彼女の得意料理である、
『手作り辛子蓮根の作り方を教えてもらう。』
この約束を、ご家族に協力してもらいつつ実現できた事。
それが彼女との一番の思い出です。
彼女は、ある日の早朝、
スタッフが様子を見に行った時には、もう息がありませんでした。
あまりに突然の事で、スタッフ一同、ショックを隠せませんでした。
私はスタッフからの一報を受けてすぐにご家族に連絡をしましたが、
頭の中ではすぐにこの事実を受け入れられず、茫然としたまま、
ただただスタッフからの報告の通りに口から言葉を吐き出している。
そんな感じだったのを覚えています。
その後、警察の簡易的な検査で死因は心筋梗塞だろうとの事でした。
彼女の表情はとても穏やかで、ただ眠っているだけで、
今にも目を開けるんじゃないかと、その姿を目の当たりにしても、
もう彼女がこの世にいない事を信じる事が出来ませんでした。
彼女には、まだまだ色々教えてもらいたいと思っていたので、
なぜもっと時間を作り、関わらなかったのか・・・。
後悔は沢山ありますが、
今となっては、どうしようもありません。
ご家族の皆様には、亡くなった当日、
上津役家家族の皆で通夜に伺った日、
そして荷物を引き取りに来た日。
何度もお礼を言われ、
上津役家に来て良かったと言われ、
上津役家に来て、自分達も知らない彼女を知る事が出来て楽しかった。
彼女の事を良く理解してくれてありがとうと言われ、
さらには、
今後、私達との関りが無くなる事を、
涙を流してまで惜しんで下さいました。
そんなご家族の皆様の言葉が、
私達の唯一の救いです。
人は誰しも、いつか亡くなる。
そしていつ亡くなるのかは、誰もわからない。
だから後悔は忘れず、今はただ、あなたと過ごす事が出来た事。
そして亡くなる前に、あなたが居た証として、
辛子蓮根のレシピを私の中に残してくれた事を心から喜びたいと思います。
大切な人が亡くなった時。
残された私達に出来るのは、いつも自分が前に進む為に、
こちらの都合の良い解釈をする事しか出来ません。
なんだか言い訳をしている様な、モヤモヤした気持ちになりますが、
それでも、そうだとしても、
私は、彼岸に到ったあなた達の安寧を信じて祈り続けます。